■廃村八丁 MTB          ■自転車旅行記へ

●2007年7月28日

困難な山行であった。大峰山に出かけるつもりで午前5時に起きて天気予報を聞いてみると、奈良県南部は土・日とも「所により雨又は雷雨」であったため、断念。

しかし、午後になって急に廃八に行ってみたくなったので、14:15に自宅出発。貴船の混雑をくぐり抜け、17:10芹生峠に着く。


芹生峠にて


さらに北上して灰屋を抜けて国道477号を左折し、井戸から北に延びる県道を北上して18:15頃、小塩に着く。

ここに小さな民宿があるが、しかめっ面をした無愛想なオバハンが出てきて「うちは予約制だ」と言いやがる。素泊まりで料理も風呂も要らないと言って交渉したが、どう見ても部屋が空いているにもかかわらず、最終的には「満室だ」と言って断られた。あんな糞宿は今後も一切利用しない。

とりあえず野宿できそうな場所を探して北上してみた。小塩から北側はダートの林道が続き、八丁方面への登山口に到るまで30分ほど走ったが、結局何もない道だったので小塩まで引き返して屋根付のバス停に泊まることにした。晩飯はオニギリ1個とカロリーメイト2個で貧相ではあったが、むしろハイドラパックに詰めた飲料水が切れかけていたのが気になった。近くには自販機がないのであきらめ、バス停のベンチで横になった。

犬を連れて散歩をしている近くの住人と思われる若者が話しかけてきた。「ここで野宿するつもりですか。夜はかなり冷え込みますよ。」と言われたが、購入したばかりのシュラフを携帯していたのでその心配は要らなかった。

やがて暗くなりだすと蚊が増えてきたため、シュラフを敷いて中に入った。それでも蚊は増える一方で、鼻と口の周りだけ露出した状態で完全防御してみたが、かえって口元を刺されてしまった。しかも、普通でさえ暑いのにシュラフにくるまると5分もしないうちに内部が汗でびっしょりになる。自転車のライトを外して周囲を照らしてみると、死体に群がるハエのように大量の蚊がたかっていた。ライトを口に加えて一匹ずつ殺していったが、いなくなったと思って再びシュラフにくるまると、5分もしないうちに耳元で蚊の飛ぶ音がする。

何時間もこれの繰り返しで、深夜12時頃にようやく蚊が少なくなったので、やっと落ち着けると思ったら、今度はパトカーが来て、住所・氏名・生年月日・職業などを聞かれた。周囲に建物はなく、車2~3台がバス停の前を通った以外は誰ともすれ違っていないのに、誰かが通報したらしい。事の顛末を話すと警察官も、あそこの民宿のオバハンはちょっと変わりもんやと認めていた。


●2007年7月29日

結局、その後も浅い眠りのまま、暑さと蚊のために何度も起こされることになった。その度に、口にライトを加えて蚊を殺さなければならないが、すぐに逃げられてなかなか殺すことができなかった。4時半になってようやく明るくなってきたので、出発の準備を始めた。水と食料を補給するためにもと来た道を引き返すことにした。国道477号まで戻ると自販機があり、そこで飲料水2リットルを補給し、開店前の売店を運よく空けてもらうことができたので、朝食と昼食用にパンを何個か買った。

7時前に昨晩辿っていた八丁の登山口に着いた。至って普通の登山道なのだが、睡眠不足のためかすぐに息切れした。大きな蜘蛛の巣を振り払いながら進み、途中で切り株があったので休憩していると、右足の靴にいつの間にかヒルが這い登ってきていて、靴ひもと穴の隙間に入り込もうとしていた。枝で振り払おうとしたが、かなりの力で奥に進もうと抵抗してくるため、枝では振り払えない。煙草の煙や火をおしつけてみたがびくともしない。結局、手で引っ張り出してから煙草の火を何度も押し付けたが容易に死ななかった。

すぐにその場を去ったが、この辺りはヒルが多く棲息していることが分かってきた。次から次へと、足元の土の下からヒルが姿を現し、胴体をにょきっと直立させた状態で頭部をしきりに動かして様子をうかがってくる。そこで少しでも立ち止まると、たちまち尺を取って靴にへばりつこうとする。ひたすら足元をみながら進むしかなかった。


~ 以上で日記中断。以下、2014年4月追記 ~


ソトバ峠。この時すでに工事中の丹波広域基幹林道が交差していた。

丸太の橋で徒渉を繰り返す。

  廃村に続く山道に、原動機のようなものが放置されていた。

墓地の横を通り過ぎる。この石垣や墓石は、廃村となる前から存在していたものだ。

小屋のある広場に出てきた。川沿いにテントを張っているボーイスカウト集団がいたが、周辺には無残な焚き火の焦げ跡が幾つも残っていた。

  小屋は崩れかかっており、中はひどい有様だった。ゴミやらトタンやらドラム缶が積み重なっていて、全く立ち入る隙間がない。無数のハエがたかっていて気分が悪くなった。

ここは神社跡。この山奥に人が生活していた名残か。

これは『京都大学高分子化学 北山の家』だが、今(2014年)ではすでに倒壊してしまっている。

  中をのぞいてみたが、屋根は剥がれて床は抜けてゴミが散乱し虫が飛び交い、まともに休憩できる状態ではなかった。

雑草に囲まれた八丁小屋。この辺りが村の中心部であったらしい。

こちらは土蔵跡である。雑草だらけで、もはや土蔵は跡形もなかった。

  四朗五郎峠。ほとんど記憶にないが、この辺りもヒルが多かったはずである。

ダンノ峠。この後もヒルから逃げるようにして広河原へ下山した。この時はまだバス輪行という手段を用いていなかったため、花脊峠を経由して自宅までの長い道のりを乗車して帰った。

今思えば、夏に来るところではないというのが結論である。

 
終わり

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