中山道          ■自転車旅行記(年度別)へ   ■自転車旅行記(地域別)へ

69次 大津宿(滋賀県大津市)

山科から大津に向けて、往来の激しい国道1号線の坂道を上がり切ると左手に
逢坂関址の碑と常夜燈が建っている。国道から離れ喧騒から逃れると、旧街道の雰囲気が濃くなる。市街地の中にありながらも古い民家や商家が所々残存しており、古来より琵琶湖の水運で栄えてきた宿場を偲ばせる。
68次 草津宿(滋賀県草津市)

本陣前通りは大名行列のパレードの真最中であり、裏通りを迂回して本陣前の混雑に割り込み、拝観料200円を支払って入館を果たす。東海道と中山道が合流する要所であることから規模が大きく、外観や内部の造りはほぼ当時のままの姿をとどめている。展示されている宿帳(大福帳)はさすがに時代を感じさせるものであり、傍らにいる係員から新撰組や明治天皇にまつわる解説を拝聴することができた。もう一度歴史を勉強し直して、また来てもいいなと思う場所である。
■67次 守山宿(滋賀県守山市)

本陣跡を示すような門や碑などは残されていないが、今宿辺りからは古い建物が残存しており街道の雰囲気を醸し出している。この今宿には、滋賀県下で唯一残っている
一里塚があるというが、残念ながら通り過ぎてしまったようだ。
■66次 武佐宿(滋賀県近江八幡市)

ここまで北上すれば、これまでに増して雰囲気は濃くなる。今でも営業している旅籠の中村屋、門や土蔵が当時のままの本陣跡等、見所は多い。
65次 愛知川宿(滋賀県愛荘町)

建ち並ぶ建造物の中でも、老舗の料理屋として200年以上の歴史を持つ「
竹平楼」は一際存在を強調している。
64次 高宮宿(滋賀県彦根市)

表門のみが残存している本陣跡の他、ここにも多くの古い建造物が残されている。
63次 鳥居本宿(滋賀県彦根市)

街道は名神高速道路に沿うようになってやや寂れた雰囲気を漂わせた後、鳥居本の集落に入ってゆく。まず目を惹くのが、「
本家合羽所木綿屋嘉右衛門」と書かれた古い合羽屋の看板を掲げた商家であり、現在は廃業しているとのことだがそんな雰囲気は感じさせないほどの立派な佇まいである。嘗ては合羽が名物であったというのも、この先に控える摺針峠を境に多雨地域に入っていくからであろうか。その先には、更に重厚な造りを構えた老舗がある。現在でも営業を継続している胃薬の赤玉神教丸の本家「有川家」であり、創業300年、建物も200年前のものであるというから感服せざるを得ない。外部から中の様子を覗いてみると、赤玉以外にも様々な薬が並んでおり通常の薬局と変わらない様子であった。
■摺針峠(滋賀県米原市

摺針峠は峠としては非常に小規模ながら、歴史と雰囲気を持つ峠。周囲の木々に囲まれた薄暗い中を潜り峠から祠へ向かう階段を上がれば、古来旧街道を江戸方面より旅してきた者が初めて見て感動したという
琵琶湖の眺望を今も同じ場所から眺めることができる。辿り着いた時は既に夕方であったため、海津大崎辺りの湖岸や竹生島が辛うじて霞んで見えた。実際には、現在の峠道も琵琶湖の湖岸線も当時と比較すれば幾分その位置が変化しているらしいが、現在の姿でも十分楽しめた。峠の下り側には侘びしげな集落が続いており、山の中に開けた長閑な農村の景色へと続く。
62次 番場宿(滋賀県米原市)

この辺りからの宿場は、これまでの開けた場所とは異なり徐々に山中に入っていくため雰囲気も一変する。市街地からも遠ざかっていき、夕刻の造り出す陰影と相まって侘び寂びを感じさせる佇まいだ。
61次 醒井宿(滋賀県米原市)

国道を逸れると、まるで保存地区であるかの如く綺麗に整備された街並みに驚く。道沿いの用水路は澄んだ水を湛え、樹木が整然と植えられている。また、あちこちに道標や案内板が建っており、ここを旅する者を飽きさせない。まずは、了徳寺にあるという『
お葉つき銀杏』を訪れる。庭の奥の方に進めば、すぐにそれと判るような立派な大木が孤立している。説明書きを読むと、珍しく葉の表面に銀杏の実がなるが為に昭和4年に天然記念物に指定されたものということだ。 さらに進むと、川を横断する小さな橋の奥で、水を汲んでいるお年寄りがいた。醒井の地名の由来ともなった『居醒の清水』であり、近寄ってみると川辺の岩の間から透明な水が渾々と湧き出ている。近くには、この湧水に因んだ逸話を残す日本武尊の像も建っている。
■60次 柏原宿(滋賀県米原市

ここでも、古い家屋が延々と連なっている。それぞれの玄関先には、「問屋役・年寄 山根甚左衛門」等、当時の屋号を記した表札が掲げられており中々興味深い。写真は伊吹艾を商っていた『
伊吹堂亀屋』であり、広重も柏原宿の画でここを描いたという。
■寝物語の里(滋賀県米原市/岐阜県関ヶ原町

ここが近江と美濃との国境、現在で言うならば滋賀と岐阜との県境にあたる。この境界線上の地面には細い溝が刻まれているが、かつてはこの溝を挟んで二軒の旅籠が並んでおり、寝ながら他国の人と会話をすることができたためこう呼ばれたそうだ。
■59次 今須宿(岐阜県関ヶ原町

そのまま踏切と国道を横切れば、美濃路最初の宿場である今須宿に入る。本陣・脇本陣跡を示す案内板が目を引くくらいの、比較的規模の小さい宿場町である。
今須峠(岐阜県関ヶ原町)

更に国道を跨いでいくと、山中の緩やかな坂道へと変貌する。地図にもあまり出てこない標高175mの小さな峠である。
■58次 関ヶ原宿(岐阜県関ヶ原町

関ヶ原古戦場を始め、合戦に因んだ史跡は数多く残されているが、街道そのものは完全に国道に吸収されており、交通量もそこそこ多い。古い街並みは残ってはいるが、宿場としての雰囲気はあまり感じられない。
57次 垂井宿(岐阜県垂井町)

これまで旧街道が絡みつくように並行していた国道21号線とも徐々に離れていく。また同時に、周囲の山々は遠ざかり、濃尾平野は拡がっていよいよ美濃路らしくなってきた。垂井宿は祭りの最中でごった返しており、老若男女の人混みをかきわけて進んでいく。やっと落ち着いた所まで来ると、今も営業を続ける旅籠『
亀丸屋』が角地に目立つように姿を見せている。
■56次 赤坂宿(岐阜県大垣市

関ヶ原合戦の戦死者を弔った『
兜塚』、脇本陣跡、そして宿の最後に赤坂港跡を訪れる。ここを流れる杭瀬川はかつては今よりも広大な川で、水運の要所として栄えたという。杭瀬側は下流域で揖斐川と合流し、長良川と共に太平洋に注いでいる。
■呂久(岐阜県瑞穂市

呂久の東側を流れる揖斐川は、大正14年の河川工事以前はこの地区の西側を流れており呂久川と呼ばれていた。文久元年、
皇女和宮親子内親王が中山道降嫁の折、呂久川を渡りながらこの地区の紅葉の美しさを詠んだ有名な歌が『小簾紅園』の石碑に刻まれている。 
   『おちてゆく 身と知り奈可ら も三ち葉能
     人な川かしく 古可連こ楚春禮』
   (おちてゆく みとしりながら もみぢばの
     ひとなつかしく こがれこそすれ)
当時14歳の和宮が嫁いだ先の幕府は、4年後に夫(14代将軍家茂)の死、6年後に倒幕を迎える。幕末と維新の混乱の中、30年という短くも数奇な運命を辿った人の生涯が、この歌碑に映し出されているようである。
■55次 美江寺宿(岐阜県瑞穂市

揖斐川を渡り、今度は県道からも逸れて北東の方向に進んで行く。規模が小さかった為か宿場の面影は薄く、唯一、宿名の由来となった美江寺の観音堂が
美江神社の境内に残されているくらいだという。
■54次 河渡宿(岐阜県岐阜市

岐阜市郊外のひっそりとした住宅地に埋もれるように建っている一里塚跡の碑があり、それ以外には当時の面影を伝えるものは殆ど無い。この先、いよいよ
長良川を渡る。現在は河渡橋という立派な橋が架かっているのでこれを渡ればよいが、昔は「河渡の渡し」若しくは「小紅の渡し」を利用して川を渡っていた。そのうち「小紅の渡し」は現在も運航しているらしく、長良川の上には渡し舟を漕ぐ船頭の姿が見られる。
53次 加納宿(岐阜県岐阜市)

ここは、岐阜駅前の混雑を複雑なルートで辿っていかなければならず、国道を使って完全に迂回した。美濃16宿中最大の宿場であった加納宿も、明治24年の濃尾大地震を経験し、現在に至ってはこのような大都市の中心部に埋もれてしまい、見る影もないのも致し方ない。
■52次 鵜沼宿(岐阜県各務ヶ原市

立派な屋敷が目を引くが、ここが
芭蕉が滞在していくつもの句を残したという坂井家脇本陣跡辺りだろう。近くには神社があり、常夜燈や芭蕉の句碑が並んでいる。句碑は、
 『者らな可や もの尓もつ可す 啼くひ者梨  芭蕉』
 (はらなかや ものにもつかず なくひばり)
と読める。
■51次 太田宿(岐阜県美濃加茂市

ここまで全て舗装路で辿れる中山道も、
うとう峠の間は山道に切り替わるためロードレーサーでは難しく、ここは国道21号線を使って迂回、日本ラインと謳われる木曽川の美しい流れに沿って進む。やがて国道41号線と交差する付近から右手に進んでいけば、よく整備された宿場街に行き着き、今も住居として保存されている脇本陣等、見る建物全てが凛然とした姿を保っている。脇本陣の目の前にある空中廊下の架かった老舗の造り酒屋も見事である。
太田の渡し(岐阜県美濃加茂市)

そのまま川伝いに進むと、日本ラインの起点、太田橋に行き当たる。
木曽節にある「木曽の桟 太田の渡し 鳥居峠がなくばいい」の節が示す通り、木曽街道の難所として知られた太田の渡しは、現在の太田橋よりも西側、ちょうど写真を撮影した辺りの場所で賑わっていたという。昭和2年に橋が架かってからはその役目を終えた太田の渡しだが、今でも日本ラインの川下りを楽しむ観光客を乗せた舟が定期的に往来しており、なかなかの風物を見せている。
50次 伏見宿(岐阜県御嵩町)

太田橋から次の伏見宿までは、そのまま国道を進んでいけば良いわけだが、どうやら地図にもまだ載っていないバイパス線の方を進んでしまったようだ。伏見宿は完全に行き過ぎてしまったが、宿内の道が国道に吸収されてしまっているため見るべきものが殆ど残っていないということで、後戻りさえしなかった。
■49次 御嵩宿(岐阜県御嵩町

首塚
を過ぎて国道を右に折れ、更に道を折れながら進むと、当時の門構えを残した本陣跡があり、その隣に「中山道みたけ館」がある。拝観は無料であり、早速中に入ってみると訪問客は誰一人としていない。内部は写真撮影を禁ぜられることもなく、自由に巡っても良いそうだ。館内には当時の貴重なものが、ショーケースに入れられることもなく有りのままの姿で残されている。入口には、「月掛大r」「講會加入帳」等多数の宿帳が吊るされている。当時の厨房の中にも立入って備品も直接見て触れることが出来る。
■48次 細久手宿(岐阜県瑞浪市

中山道は国道から離れて
物見峠から細久手に至るまで長い山間の道へと入っていくが、ここは県道65号線を使って迂回する。県道は何も無い寂しい道であるが、恵那〜御嵩間のショートカットとしてそこそこ交通量が多い。宿場に入っても鄙びた雰囲気は変わらず、置き忘れられた山村の風情が漂う。この日は宿場唯一の老舗の旅籠『大黒屋』で一泊した。自分以外にも5名の宿泊客がおり、皆、歩いて中山道を完歩しようとする人達ばかりだ。中山道を歩く人にとっては、御嵩〜大井間は宿泊施設がこの1軒のみで、大変貴重な存在である。先代15代目の女将である83歳のお婆さんから、安政5年の大火の翌年に再建されて現在に至る旧本陣大黒屋の事や細久手宿の歴史について、貴重な体験談を聴かせてもらった。
琵琶峠(岐阜県瑞浪市)

ここは未舗装路ながら距離も1キロばかりと短いため、譲らずに自転車を担いで行くことにした。県道から逸れて入口の叢が生茂る道を進んで行けば、やがて石畳道へと切り替わる。
石畳は明治以降長らく土中に埋もれていたものが昭和45年になってようやく発見されたもので、長さ800メートルにも渡っており現存しているものでは全国最長という。かつての姿を留めている八瀬沢一里塚跡を過ぎ、峠に辿り着くと和宮歌碑が目印のように建っている。峠はその昔は展望も開けたというが、今や山の木々も高くなり何も見渡せない。歌碑には降嫁の時に詠んだ次の句が記されている。
 『住み慣れし 都路出でて けふいくひ
       いそぐもつらき 東路のたび』
47次 大湫宿(岐阜県瑞浪市)

ここも細久手と同じく、山間のひっそりとした宿であることに変わりはない。建物もそれなりに残っており、県道から少し逸れた場所に在るため交通量もほぼ無く、落ち着いた雰囲気を保っている。建物には屋号を記した表札も掲げられている。続いて本陣跡である大湫小学校の校庭を訪れる。小学校は既に廃校になっており、校庭の隅には本陣跡の碑と共に和宮歌碑が並んでおり、降嫁の際にここに宿泊したことを偲ばせる。廃校となってまだ時間が経っていないようで、今にも児童の声が聞こえてきそうである。
46次 大井宿(岐阜県恵那市)

大湫から大井を結ぶ
十三峠と呼ばれる山道は、県道65号線と国道19号線を使って大きく迂回。交通量の激しい高速道路の如き幹線道路を経て、ようやく恵那市の市街地に到達する。現在は中央本線恵那駅のある付近が大井宿であり、駅前通りには流石に面影は無いが、少し先を行けば雰囲気のある脇本陣跡等の建物群が現れてくる。
45次 中津川宿(岐阜県中津川市)

右手に恵那山の勇姿を望みながら中津川市に入り、国道を左に逸れて坂道を下っていく。美濃路最後の市街地は、これが見納めとばかりに広大に開けている。宿に入っても、都市部にありながら建物群は良く保存されている。明治元年創業の菓子屋
川上屋の脇には、「右木曽路 左奈こや(なごや)」の道標が建っている。
44次 落合宿(岐阜県中津川市)

国道19号線から落合宿に至る道は、坂道が多くて迷いやすいが、道標や標識を手掛りにしながらようやく辿り着く。本陣跡を過ぎて美濃路16宿最後の宿場に別れを告げ、県道7号線を跨いで「石畳を経て馬篭へ至る」と書かれた札が刺さった分岐を左に向かえば、愈々十曲峠に向けて鬱蒼とした様相を呈してくる。
十曲峠(岐阜県中津川市)

深い木立の間を抜ける古い
石畳の路が続く。この坂道が十曲峠と呼ばれ、明治期に土に埋もれていたものが後に掘り起こされて現在の形に保存されている。自転車を押して、湾曲する坂道をここを散策する旅人と同じ速度で楽しむ。初めて来る場所であるのに、何となく懐かしい感じがするのは、島崎藤村の『夜明け前』の影響に他ならない。作者の父・島崎正樹をモデルとしたこの小説は、維新という「夜明け」に潜んだ闇の部分を馬籠宿本陣という木曽路の一隅の視点から描写した原稿用紙2500枚にも及ぶ近代自然主義文学の超大作である。まさしくこの旅路を思い立ったのも、この作品に出会ったからであった。
■新茶屋(岐阜県中津川市

石畳が終わればすぐ目の前に、小説にも登場する『新茶屋』が見える。まず目を引くのが、藤村の筆で 『
是よ里北 木曽路』(これよりきた きそじ)と彫られた石碑であり、藤村が「夜明け前」の執筆後、晩年に揮毫したものである。平成の大合併により馬籠宿を含む長野県木曽郡山口村が岐阜県中津川市に編入される以前は、正にここが県境であり、美濃と木曽との国境であった。傍らには、芭蕉の句碑も建っている。
『送られつ 送り川果者 木曽乃龝』
(おくられつ おくりつはては きそのあき)
「夜明け前」の作中に於いても馬籠宿年寄役の伏見屋金兵衛がこの碑を建立した場面が登場するが、164年の歳月を経てこうして目の前に蘇っているのは何とも不思議な気分だ。
43次 馬籠宿(岐阜県中津川市)

宿の南口で県道7号線と交差する辺りからは、観光バスでやって来た観光客でごった返す。狭い坂道の両側には見事に再現された屋敷が連なる。巨大な水車が廻っている水車小屋等が目を引くが、ここまで観光地化されれば妙な違和感を感じる。本陣跡である
藤村記念館に入館したが、意外にもここでも大勢の家族連れの観光客で賑わっていた。資料館の中には「夜明け前」「突貫」「東方の門」の原稿等、数々の貴重な資料や写真が展示されている。庭からは「夜明け前」に登場する万福寺こと永昌寺を裏手に眺める。勿論、観光客の殆どは藤村の文学について無知であろうことは否めないが、それでも何時廃れてもおかしくないような立地にあったこの村がこれ程までの活気を取り戻しているのは、藤村の存在が如何に大きいかを語っている。
馬籠峠(岐阜県中津川市/長野県南木曾町

標高801mの馬籠峠は、平成の大合併後、
岐阜と長野の県境に位置することになった。峠には、如何にも観光地に便乗して作られたような亜流の雰囲気を放つ茶屋がある。店内で、名物の五平餅を味わう。峠を下った先には、更なる大規模の観光地、妻籠が控えている。
42次 妻籠宿(長野県南木曾町)

宿内に入れば観光客の数は然ることながら、近代的なものが一切視界に入らない江戸時代そのままの景観に圧倒される。平成7年に復元されたという説明書のある本陣跡を始め、多くの建物がここ数十年の間に手を加えられたものであるが、時代感を損ねずにここまで徹底して再現しているのは感動的ですらある。昭和43年には訪れる観光客がほぼ皆無だったこの過疎地は全国に先駆けて
街並み保存に取組み、昭和51年には重要伝統的建造物群保存地区に指定され、平成5年には観光客数が年間100万人に達している。
41次 三留野宿(長野県南木曽町)

妻籠から
上久保の一里塚跡を経て三留野宿に至る。眼下に拡がる南木曽駅前の線路沿いの空地に無数の木曽檜が集散されているのは、木曽路らしい風景である。本陣跡には2本の石柱が残されているのみだが、狭い道路が湾曲して続くさまは、峡谷の間の極僅かな平坦地を利用して家を建てた結果であり、これぞまさしく木曽路の姿である。さきほどとは打って変わり、宿内には人影も見当たらないのが却って安心させる。
40次 野尻宿(長野県大桑村)

中山道は国道19号線と合流し、巨石がごろごろと敷き詰める広大な木曽川の流れを眺めながら北上する。野尻宿の「
西のはずれ」の屋号を持つ家に立つ説明板を読めば、この宿の特徴は外敵を防ぐための「七曲り」にあるといい、その名の通り道が左右にうねっている。町はまるで昭和の中頃で時間が止まっているようで、どことなく懐かしい雰囲気が漂う。
39次 須原宿(長野県大桑村)

宿内は、迫り来る山々を背に、古い情緒ある建物が用水路を挟んだ一直線の道に沿いながらずらりと並んでいる。この様子を指して「
鉄砲町」とも云われていたという。その用水路の上部に、水を湛えた大きな木の枡が置かれている場所がある。これは「水舟」といい、檜を刳りぬいて造った水槽に裏山の湧水を引いて、共用の井戸として利用しているものらしい。
■寝覚の床(長野県上松町

国道にあるパーキングの一角から眼下に見渡せるのは、荒く削り取られた巨岩が川面にそそり立つ自然の造形であり、木曽川の渓谷の深さを物語っている。この巨大な花崗岩の上には、ここを歩いて楽しむ無数の人影がちらついて見える。
■38次 上松宿(長野県上松町

小さな石碑のみが建っている一里塚跡を過ぎれば、短いながらも昔の面影を残した町並みが連続している区間がある。細々としているが、ここは駅や役場も近く十分な生活感が漂っている。迫り来る山々が、
木曽檜の名産地として密接な関係にあったことを窺わせる。
木曽の桟(長野県上松町)

木曽街道の難所の一つとされた『木曽の桟』。この辺りの山腹は急斜面であるため、道が途切れる部分に橋を渡して繋いでいた。「夜明け前」の冒頭にも、『名高い桟も蔦かずらを頼みにしたような危ない場処ではなくなって徳川時代の末には既に渡ることの出来る橋であった』という記述がある。かつては命がけで渡っていた橋も、今では標識が無ければ全く気付かないで通り過ぎてしまう国道の一部である。桟は手前の木曽川に架かる橋の上から見えるが、耐震補強工事の足場に遮られてしまい、江戸時代の石積の一部が残っているという部分もよく見えなかった。
37次 福島宿(長野県木曽町)

木曽福島まで来れば、久々に賑わいを感じるようになる。街道から少し離れた行人橋から眺めれば、「
崖屋造り」と呼ばれる木曽川にせり出すように建つ建物群が、狭隘な地に関所の町として栄えた様子を偲ばせている。宿場は坂の多い場所に展開しており、綺麗に整備されていて風格の漂う建物が続いている。実際の三分の二の大きさに縮小されて復元された高札場が興味を引く。続いて、天下の四大関所の一つとして、封建制度の時代に「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった福島関所を訪ねる。「夜明け前」の中でも重要な舞台の一つとなっている関所は、その役目を終えて明治2年に取り壊された後、約100年の年月を経て立派に復元されている。
36次 宮ノ越宿(長野県木曽町)

木曽街道の中心にあたる宮ノ越宿には、以前は「
中山道東西中間の地、京都へ、江戸へ、六十七里二十八丁」と書かれた大きな標柱が建っていた。街道沿いになければその意味は無いと思われるのだが、どういう理由からか東側の国道沿いにある道の駅日義木曽駒高原へ移設された。本陣跡には『明治天皇御小休之址』の碑が立つのみで何も残されていないが、「中山道宮ノ越宿」と書かれた標柱の北側には「江戸より六十六里三十五丁」、南側には「京へ六十八里二十二丁」と書かれており、中間地点を一里弱過ぎた所に在ることが分かる。
■35次 藪原宿(長野県木祖村

鳥居峠の南の麓に位置する落ち着いた宿場である。旅の記念に、薮原の特産品として有名な『
お六櫛』を購入。店の人によれば、ミネバリという粘りのある堅い木を材料に江戸時代の中頃から作られ続けているこの塗り櫛を扱う職人も、今は僅か一人しかいないということだ。この日は、古くからの旅籠『米屋』に宿泊した。外観もさることながら、内部に於いても改修の形跡も見当らず古い造りのまま残っているのが印象的である。ここの主人は数年前妻に先立たれて以来、独りで営んでいるそうだが、建物を維持するだけでも大変であろう。後を継ぐ者もおらず、体調も芳しくないので何時ここを畳んでしまうかも知れないと言っていたが、惜しい話である。こんなに素朴で落ち着ける宿は滅多にない。
鳥居峠(長野県木祖村/長野県塩尻市)

和田峠・碓氷峠と並ぶ中山道の難所である鳥居峠は、旧道は急坂の山道に分け入り標高1197mまで達するが、国道の鳥居トンネルへは薮原宿から少し坂を上れば間もない。今回最初の
中央分水嶺横断であり、トンネルを潜れば太平洋側から日本海側への水域へ突入する。
■34次 奈良井宿(長野県塩尻市

宿場街の再現の徹底ぶりは妻籠・馬籠に次ぐものがある。まだ早朝のために閑散としているが、軒下には既に商いを始めている店がちらほら見られ、昼間にでもなれば観光客で賑わうのではないかと想像させる。嘗ての宿場としての規模も
木曽11宿中最大であり、当時の繁栄ぶりがそのまま受け継がれているようだ。思う存分時代錯誤感を楽しませて貰った。
■33次 贄川宿(長野県塩尻市

木曽漆器を商う古い店が並ぶ
平沢間の宿を挟んで贄川に着く。木曽路11宿の最初の宿として、ここ贄川にも関所が設けられていた。福島関所と同じく明治2年に閉止されたが、後になって古い資料や地図を手掛りに復元されたものである。
32次 本山宿(長野県塩尻市)

国道19号線の左手に「桜沢
木曽路入口」の碑があり、ここで十曲峠より始まった木曽路の旅に別れを告げる。信濃路最初の宿は、深い谷間に埋もれるような木曽路を抜けたことを示すかの如く、周囲の山々は徐々に遠ざかっていき、2車線の広々とした道路に沿っているのが印象的だ。本陣跡を示す碑は見られなかったが、それらしい建物の前に「明治天皇本山行在所跡」と記された碑がある。この辺りには、宿場の雰囲気がよく残っている。
31次 洗馬宿(長野県塩尻市)

今は新しい建物が建てられている脇本陣跡、荷物貫目改所、そして本陣跡と標識は建てられているが、宿場街としての面影は薄い。5年前、T建設で現場監督として働いていた頃に洗馬に住んでいたことがあり、懐かしい地だ。
■30次 塩尻宿(長野県塩尻市

道標のある分岐まで戻ってきて、分岐を右に少し進めば、「
細川幽斉肘懸松」がある。幽斉がこの松に肘を当てながら月を眺めたという説明が書かれている。この先の塩尻宿のことはすっかり意識から外れ、写真を撮ることもなく通り過ぎてしまっていた。
■塩尻峠(長野県塩尻市/長野県岡谷市

道幅が広く交通量が多くていかにも国道の峠であるが、
諏訪湖がその姿を初めて現し、広大な盆地が一気に広がる眺望の優れた峠であり、ここで再び分水嶺を跨ぐことにもなる。標高は999m。旧道の峠を通らない今回の旅では、3番目に標高の高い峠である。
29次 下諏訪宿(長野県下諏訪町)

ここ下諏訪宿は
甲州街道の終着地でもあり、それを示す『右甲州路 左中仙道』の道標が立っている。観光客もそこそこ多く、宿内は綺麗に整備されている。問屋兼本陣の岩波家も当時のまま残っており、文久元年には和宮降嫁時の泊所になり、明治13年には明治天皇巡幸時の小休所にもなったと説明されている。本来ならこの辺りで温泉を、といきたいところだが、この先にはすぐ和田峠が控えている。
和田峠(長野県下諏訪町/長野県長和町)

下諏訪宿を抜ければ、左手には湖畔に広がる下諏訪の町並みを眺めながらの坂道が始まり、長い峠道へと続くが、ここでも見逃せない史跡がある。峠の中腹から脇道に入った場所に存する『
浪人塚』即ち水戸浪士の墓である。幕末の時代に尊譲の旗を高く掲げ、ここ和田峠での諏訪藩・松本藩との激戦を潜り抜け、越前の地で凄惨な最期を遂げるまでの一部始終は、「夜明け前」に於いても余すことなく克明に描写されている。如何にも侘びしげな場所に立つ墓標には当地での戦没者六名の名前が彫られ、裏側には『元治元年甲子十一月廿日討死』と刻まれている。
■28次 和田宿(長野県長和町

長い下り坂を経て和田宿に入る。古い建物が多く、少し色褪せしたような景色が続く。老朽化が激しく、瓦や外壁が剥げ落ち、屋根が苔むしているような家や土蔵もある。そんな中、本陣跡の建物は一般公開されているだけあって立派な佇まいだ。
■27次 長久保宿(長野県長和町

濱田屋旅館の前に「中山道長久保宿」と彫られた目印の石碑があり、ここで宿内の道は直角に折れる。笠取峠へ向けての緩やかな上り坂となっており、左手には旧本陣の石合家住宅がある。
笠取峠(長野県長和町/長野県立科町)

標高887mの笠取峠が本日4つ目で最後の峠となる。交通量の少ない2車線の車道である。峠にある標柱には説明書きがあり、和田峠と同じく
力餅を売る茶屋があったそうだ。明治34年に峠の峰付近を切り通して低くするまでは、茶屋跡は今よりも7.5m程高い場所にあったと書いてある。
■26次 芦田宿(長野県立科町

脇本陣跡の碑が立つ場所には、後年に建替えられたと思われる古い住宅がある。その向い側には本陣の土蔵が残っている。やがて立派な
木鼻を突出させた、明らかに江戸時代に建てられたような古い建物に行き当たる。「津ちや」と書かれた時代物の看板が目を引くが、ここが今も営業を続ける旅籠の「金丸土屋旅館」である。
■25次 望月宿(長野県佐久市

望月宿の本陣跡は新しい建物が建っており診療所となっているが、重要文化財の民家
真山家、脇本陣跡等は当時の面影を残している。その先にある「井出野屋旅館」は珍しい木造三階建の旅籠である。この日は、その向い側にある旅籠「松坂屋旅館」に宿泊する。建物内部はまるでホテルのような改装ぶりだが、宿泊費は安く料理も満足できるものである。
■瓜生坂(長野県佐久市

最終日は雨。望月宿を出るとすぐに坂道になり、標高745mの小規模な峠に到達する。交通量は殆どない。ここから望月の町並みを一望できるというが、濃い霧に包まれて何も見えなかった。
■24次 八幡宿(長野県佐久市

中山道は、和田峠入口から続いていた国道142号線から離れ、県道の方を進んでいく。基本的には、老朽化した古い家と新しい住宅が混在している町並みが続く。本陣跡には古い門の一部が残されているが、今にも崩れ落ちそうである。
■23次 塩名田宿(長野県佐久市

塩名田宿も八幡宿と同じく、県道に吸収されているためか比較的新しい建物が多い。雨の所為で視界が悪く、結局本陣跡等を見つけることなく過ぎた。
■22次 岩村田宿(長野県佐久市

小海線の踏切を過ぎた辺りから岩村田宿となる。あまり雰囲気は残っておらず、中山道は宿内の交差点を左に折れて県道9号線の幹線道路となり、この辺り一帯は商店街として生まれ変わっている。
佐久鯉で有名な場所であるが、多くの店は未だ開店前でシャッターが降りていた。商店街から少し離れた場所に佐久鯉を扱う平屋の小さな店が一店あったくらいだ。
21次 小田井宿(長野県御代田町)

ここから軽井沢までの道はよく知っている。6年前に転勤で軽井沢に住んでいた頃、よく通った道だ。小田井宿は、国道から少し逸れた所にあるため、ここ2、3宿よりは宿場の雰囲気が残っている。問屋跡、本陣跡の建物は宿場当時の外観を留めた状態で建っている。晴れているに越したことはないが、雨の日に見る宿場というのも、また違った表情があって良い。
20次 追分宿(長野県軽井沢町)

この付近まで来れば、本来ならば白い噴煙を靡かせている
浅間山の姿が至近距離から望めるはずであるが、麓から霧に覆われてしまい、どの位置にあるのかすら判然としない。中山道が国道18号と交叉する場所には北国街道との追分を示した「分去れの道標」が立っている。それからは、何年も前に倦むほど眺めた景色が続く。
■19次 沓掛宿(長野県軽井沢町

沓掛宿には宿場当時の面影は殆ど無い。しかし私的には、勤務先があった場所であるためその近辺は知り尽くしている。現場監督時代に、よく仮眠を取るために来たのが、ここ『
沓掛時次郎の碑』が立つ長倉神社境内である。今は沓掛宿を含めた一帯は中軽井沢と呼ばれ、この碑こそが、「沓掛」の名を残している唯一のものとも言われている。
■18次 軽井沢宿(長野県北佐久郡軽井沢町

軽井沢宿は国道を大きく離れて旧碓氷峠の方へ向かっていくため、最初から立ち寄る計画に入っていない。もっとも、宿内の道は過去に仕事で何度も通っているが、別荘や洒落た店が建ち並ぶ街路の中に宿場の名残があるものがどの位残っているのかは、今回改めて行って確かめるまでもない。
■碓氷峠(長野県軽井沢町/群馬県安中市

長野側から来る者にとっては上り坂は殆ど無いに等しく、あっけなく標高958mの峠に辿り着く。勿論、旧道は険しい山道を更に標高200m程登らなければならないため、厳しさは国道の比にはならない。今回の旅の最後の
分水嶺越えともなる。視界を遮った霧が少し晴れてくると、廃線となったしなの鉄道の遺構が随所に見られる。
■17次 坂本宿(群馬県安中市

長い国道18号線の碓氷峠を下ると、そのまま旧道が国道に合流して坂本宿へ入る。古い建物は余り残されていないが、脇本陣跡、本陣跡にはそれらしい建物が建っている。その
佐藤本陣跡にある案内板を読めば、坂本宿は西に碓氷峠、東に碓氷関所を控えているため、ここでの宿泊が必然となり、本陣二軒が敷かれ、大名はじめ朝廷、日光例幣使、茶壷道中で大変な賑わいだったという。今はその当時を知るよすがもないほど静寂を保っている。
■16次 松井田宿(群馬県安中市

県道沿いに展開する住宅地に埋もれて、所々に古い建物が残っている。「妙義登山口」と書かれた古い看板を掲げた家が示す通り、このすぐ裏手には荒々しい山容を放つ
妙義山が潜んでいる。残念ながら、強い雨の中ではその独特の奇観も全く望めない。
15次 安中宿(群馬県安中市)

安中宿は安中市の市街地を行く。「安政遠足」の幟が街道の道路脇に延々と続いている。「
安政の遠足(とおあし)」は、安政時代に藩士の鍛錬のために始められたマラソンであり、碓氷峠までの7里余りの距離を走ったという。近年復活して毎年5月第2日曜日に行われる安政の遠足を1週間後に控え、準備中といったところであろう。
14次 板鼻宿(群馬県安中市)

本陣跡には碑が立つのみで、その敷地は公民館となっている。この敷地の裏手には「
本陣書院」が残されており、この地に宿泊した皇女和宮の資料館となっているが、休日は閉館しているようだ。
13次 高崎宿(群馬県高崎市)

高崎駅周辺とあっては、もはや面影は何も残していない。今回の旅行はここで終える。連日、朝から夕方まで観光地巡りの疲労感に支配されたが、やはり本当の醍醐味を知るには昔の旅人と同じ徒歩に限るのであろう。それでも、この4日間は得難い貴重な経験となった。今後、もう一度訪れることがあるかどうかは分からないが、街道の景色がいつまでも変わらずにあることを願う。
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